2008年7月25日配布Metropolis誌:日比谷カタンインタビュー記事和訳

# 大変長らくお待たせしました! 2008年7月25日に配布されたMetropolis誌掲載インタビューの和訳を作成しました。


Interview with Katan Hiviya 日比谷カタン インタビュー by Dan Grunebaum ダン・グルネバウム
(2008年7月25日 Metropolis 誌 "Japan Beat" 掲載)

日比谷カタンくらいのマイナーセレブリティであれば、既に英語での取材経験がありそうなのものだ。だが、その夜、彼が出演した場所からそう離れていない、吉祥寺のうらぶれた界隈にある公園で、私が何とか敢行したこのインタビューが、彼にとって初の英語媒体からの直接取材であることが判明した(☆1)。

日比谷は、ヨーロッパに数回、彼の一風変わった音楽的混合物を持ち出してきた。キングクリムゾンのメンバーと共演したことがあり、批評家たちから高い評価を得た熊坂出監督のインディーズ映画(☆2)「Asyl―Park and Love Hotel(日本語題名「パークアンドラブホテル」)」においても、彼の音楽は海外で聞かれた。日本では、2001年に音楽活動を開始し、以降、サックスプレイヤーの梅津和時などのジャズやアンダーグラウンドの音楽界の大御所とのコラボレーションも行ってきた。

だが、このような最近のさまざまな形の露出があるとはいえ、日比谷の音楽は、ある程度受け入れられることはあっても、トップ40入りはしないように感じられる。その夜のギグでは、彼はマイクの前に1人で座り、ぼろぼろに使いこんだギター(ジプシージャズの巨匠ジャンゴラインハルトが使っていたタイプのコピーモデル)を携え、くっきりした輪郭の整った顎のラインと大きく潤んだ目に、わずかに両性的でビジュアル系的な印象を与える一抹のメイクアップを施していた。

日比谷は、ジャズからプログレッシブロックを経由しシャンソンまでに及ぶ幅広いスタイルを混合して、想像もつかない醸造物を作り出し、それで観客を釘付けにし、楽しませていた。この混合物は、彼の2枚のアルバム「対話の可能性」と「ウスロヴノスチ」で、丹念に吟味できるだろう。この日のライブでは、彼は数曲しか演奏しなかったが、それぞれの曲は10分を超え、複雑に連結し合うパーツで構成されている。彼は、そのような曲に合わせて、演劇的なボーカルスタイルで歌い、超高速フィンガーワークを駆使してギターを奏でていた。

私が彼にセットリストの最後の曲の内容について質問したところ、その答えは、いみじくも複雑に入り組んだものだった。基本的なあらすじは、政治的暗殺者とかつて熱烈に愛しあったことを思い出している、いかがわしい施設にいる若いオドリコ(女性のエンターテイナー、いわゆる「踊り子/ストリッパー」)の物語のようだ。彼の説明によれば「設定は、現実のものではない」とのこと。「スターウォーズのバーのシーンみたいに、人と動物の奇妙な混合生物が皆いっしょに会話しているような感じです。」

作品を構成しているさまざまな部分は、それぞれ異なるキャラクターを表現している。「シャンソンスタイルの歌の部分は、踊り子を表現しています。やかましい部分は、殺し屋が登場しているところです。」と、彼は言葉を続けた。「僕は、頭の中でロールプレイングゲームみたいなものを作っていて、それで長さが17分もある曲を作ったりしています。理解してもらうのは難しいかもしれませんが、僕が狙っているのは、人々の基本的な感情を描くことなんです。」

生まれながらのストーリーテラーにして、才能に恵まれたアーティストであり、グラフィックデザイナーとして生計を立てている日比谷は、漫画家になるという野望を持っていた時期もあると言う。そして、新しい表現と社会での交流の道を音楽によって開かれるまでは、暗く引きこもったオタクの道を突き進んでいた。「僕にとって、最近、秋葉原で大量殺人を犯したヤツというのは、まったくの他人事とは思えないところもあるんです。」と彼は淡々と話した。「日本には、あの犯人みたいなやつらがごろごろいると思うし、かつての自分も一歩間違えばああいう人間になっていたかもしれないとも思います。

「僕の場合は、音楽で自分を表現し、そこに集中するということを見つけましたが、それがなかったら、僕だってあの犯人にようになっていたかもしれない。あの犯人は、自分の欲求不満から自分を引き離す何かを見つけることができなかったんじゃないかと思っています。僕自身、かつては、基本的にあの犯人のように社会を憎んでいました。自分の中に抱えていたそのような気持ちに折り合いを付けられるようにしてくれたり、僕にだいたいにおいて社会と積極的に交流する方法を与えてもくれたりした諸々の物事に関わることができたのは、主に単なる偶然だったんです。」

日比谷は、2001年に音楽におけるキャリアを確立したときに、ステージ名を日比谷カタンにした。これは、驚くべきリアリスティックな球体間接人形の作り手として伝説的存在となっていた故・天野可淡から引いている。東京生まれの彼は、主に築地の魚市場の近くの下町で育った。子供の頃は、そこで、いじめられていたと言う。
「僕は、今はギターを弾いて、歌を歌っているけど...以前は、歌えなかったんです...僕はかつては今とはまったく違う人間でした。僕は、まだ、自分が尊敬してきた歌手の方々と自分自身を並べて考えることなどできないんですが、音楽と歌を通して、自分なりの解決法を見つけたんです。その前までは、そんなにいい人生じゃありませんでした。嫌なことが多すぎたというか。生きることを今にも諦めそうな感じでした。自殺も考えましたし。そういうことを忘れたら、ダメだと思うんです。僕は絶望していたし、 今でもまだ絶望しているんです。でも、今は、たとえ絶望の中にあっても、何とか生きていこうとするべきじゃないかと感じています。今では、生きることはそんなに辛くはないんです。」
(Translated by Natsue Noda 野田夏枝)
訳者注:本インタビューは英語のネイティブスピーカーである取材者が、日比谷カタンに日本語で質問する形で行われました。このため、細かいニュアンスがやや伝わり切らなかったようで、細部に事実と異なる描写が含まれています。ここでは、日本語読者の方が英語原文を参照できない場合を想定し、読みやすさを優先したやや曖昧な表現を採用させていただきました。また、日比谷カタンの言葉も日本語のネイティブスピーカーではない方に、わかりやすく説明することを意識した口調になっています。(☆1)実際には、日比谷カタンは、これより前に"英語によるインタビュー/取材"は受けたことがあります。このときの取材者に「"このような取材"は初めてですか?」と質問され、日比谷が「このような取材=英語媒体の取材者による日本語での直接取材」と解釈して「はい」と回答した結果、記事では事実とやや異なるニュアンスの表現になったものと推測されます。(☆2)欧米ではメジャー系列作品ではない「独立資本」という意味で「インディーズ映画」と表現されるそうです。一度「インディーズ」を削除しましたが、改めて原文を反映した訳語に訂正しました。

◆2008年7月に掲載された日比谷カタンの記事「Japan Beat」英語原文:http://metropolis.co.jp/tokyo/748/music_beat.asp